国光館パノラマ館は、遊就館付属地であった現在の九段会館のある付近に、明治35年(1902)5月4日に開館しました。掲げられたパノラマは野村芳光の筆で、北清事変(義和団の乱)時の八里台の戦況を描いたものでした。開館翌日の読売新聞は、この開館式の模様を詳しく伝えています。
"麹町区九段牛ヶ渕なる遊就館付属国光館にては、昨日午前九時より朝野の紳士を招待して開館式を挙行したり。門前には各彩旗及び球燈を吊し、正面右側に天幕を張りて、来賓席に宛て、館主村上鶴蔵氏の開館の主旨、及び加茂靖国神社宮司の祝辞に代わる和歌の朗読あり。次いで寺本周三郎氏の説明にて、一同館内を観覧し了(おわ)って立食の饗応あり。なお余興として薩摩琵琶市音楽隊の催しありて頗(すこぶ)る盛んなりき。当日来賓の重なるは、福島少将、山下、荘司の二中佐、眞田少佐、藤村一等監督、加茂宮司、小原神田区長、及び各新聞記者等、数十名なりしが、同館の計画する所は、之(これ)をもって靖国神社祭典並びに修繕費の一部を補充し、併せて軍事教育奨励の一端に資せんとありて、村上鶴蔵氏之(これ)を建設し、靖国神社に献納せしものにて、同館の絵画は、北清戦役中特に名誉の大激戦たる八里台の戦況を、福島少将、山下海軍中佐、石坂前軍医総監の三氏に就きて、野村芳光が健筆を揮(ふる)いたるパノラマなるが、天津居留地を中心として各方面を見渡したる所なり。"
福島安正陸軍少将は、シベリア単騎横断で名を馳せた情報将校で、日露戦争においては満州軍総司令部参謀を務めています。北清事変時には日本軍指揮官。
山下源太郎海軍中佐は、日露戦争時に軍令部参謀を務めました。またバルチック艦隊の対馬水道説を強く唱えて、日本海海戦の勝利に貢献しています。北清事変時には天津の海軍陸戦隊総指揮官。
荘司義基(しょうじよしもと)海軍中佐は、連合艦隊第二艦隊第四戦隊の防護巡洋艦「新高」の艦長。日露戦争時は大佐でした。
石坂惟寛(いしざかこれひろ)は、日清戦争時の第一軍軍医部長で、のちに陸軍軍医総監を務めました。
安井コレクションより
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Date: 2007/9/23 10:00:06 | Post: mikio
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