東京浅草公園 / Asakusa Park at Tokyo.
凌雲閣の入口を塞ぐようにして大きな仁丹の看板が立っています。この懐中薬が発売されたのは明治38年(1905)のことで、凌雲閣前にこの大型看板が立っていたのも同じ頃といいます。看板の下には活動写真館「千束館」の文字が見えます。左側に見える芝居小屋は「大盛館」。明治34年(1901)から玉乗り曲芸の江川一座の常打ち劇場となりました。その手前には大池中島の茶屋が見えます。仁丹の隣の看板に書かれているモスリンとは羊毛で織られた織物で、当時は着物や襦袢などに使われていました。
この頃、凌雲閣の裏手には「十二階下」や「魔窟」などと呼ばれる私娼窟が広がり、全盛時代を迎えつつありました。塔下付近は表通りこそ普通の民家が並んでいましたが、路地裏に一歩足を踏み入れると、異空間とも呼べるような全く別の世界が広がっていたのです。
"明治三十四年頃から、同四十年頃までが銘酒屋普及時代で、僅か五六年の中に四十数件内外しかなかつたものが、一躍数百件の多きに達したものである"「近代庶民生活誌」第二巻
"東京浅草公園における調査によれば、同公園において銘酒屋、新聞縦覧所、碁会所の看板を掲げたものの多くは淫売屋で、その数は約八〇〇軒、各家に平均三人の売笑婦を有していた" 明治40年(1907)2月2日 国家医学会における栗本庸勝の演説
"東京の代表的魔窟として全国に知られてゐる此私娼窟は六区から千束町にかけて巣を喰い、警視庁の新令施行以前までは三千近くの淫売婦がいた"「東京の解剖」長谷川涛涯 (大正6年刊)
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Date: 2007/9/30 22:00:06 | Post: mikio
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