富士山縦覧場開業広告 / 明治20年(1887)11月6日付 読売新聞より
"予(かね)て諸新聞にもしばしば記載し、頗(すこぶ)る世評喧(かすびま)しき浅草公園の富士山は、いよいよ落成して一昨々日山開きとしさる趣きと聞き、一昨日早速出張し登山を試みさるに、聞きしに勝る広大の築造にして、高さ直立十八間(32.8m)、裾囲(すそまわり)百五十間(273m)、登り二百間(364m)、頂上周囲(まわり)十八間(32.8m)、降(くだ)り二百三十間(418.6m)にして、頂上に数個の望遠鏡を備え、東は隅田川より鴻の台、遠く葛飾の風景を望むを得(う)べく、西は箱根の連山より富士本山を一目に眺め、南は東京市中は勿論、品川湾より房総の山岳を手に取る如く窺い得られ、北は吉原千住を始め、戸田近傍を眼下に見渡し、其(その)絶景云(いわ)ん方(かた)なし" 明治20年(1887)11月9日 読売新聞
この眺望は、さらにスケールアップするかたちで、のちの凌雲閣にそのまま引き継がれたといえるでしょう。
明治20年11月6日に開場した富士山縦覧場は、文字通り富士山を模した人造山で、浅草公園第六区の南西部、4号地の南端に築造されました。この遊覧場建設を企てたのは香具師の寺田為吉という人物です。浅草寺では明治18年(1885)に五重塔の修繕が行われた際、外周に足場が組まれ、これに1銭の下足料を取って登閣を許したところ大変な人気となりました。富士山縦覧場は、この人気に乗じた寺田が、登高遊覧で売る独自の施設をと計画したものでした。開業直後から大きな注目を集めたこの施設は、翌19年正月元旦には、初日の出を見ようと1万5千人ほどの登覧客を集めるなど、大変な人気を集めていたといいます。しかし明治22年(1889)8月31日の暴風雨で骨組みだけの無惨な姿を晒すと、修繕を施して再開場するものの人気が戻らず、開業からわずか3年後の明治23年(1890)2月に取り壊しとなりました。
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Date: 2007/9/30 22:00:01 | Post: mikio
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